| 南西アジア旅行記 管理人の、7ヶ月間のアジア一人旅 おもしろエピソード |
■ 第29話 「異邦人」の町 パキスタン中西部の中心都市クエッタに到着。 街には派手なトラックや、オートリキシャ、日本製のクルマが走っていた。 ラホールの街には馬車が多かったが、この街に馬車はない。 馬車のかわりに「ロバ車」が走っている。 これはのどかな風景だ。馬車をそのままミニチュアにしたような、なんとも滑稽なロバ車に、真面目くさった顔をしたおっさんが乗っかってトコトコ走り回っている。 見ているだけならロバは可愛いけど、この動物はよほど悲しい運命のもとに生まれてきたのだろう。何がそんなに悲しいのか?と思うほど悲壮な声で鳴く。 聞いているとこっちまで悲しい気分になってくる。 お願いだ、やめてくれ、鳴かないで! まだインドのゴアの海岸でくらったLSDショックの残像が頭の中に残っているのか、動物の瞳なんかをじっと見ていると、吸い込まれそうになって、 この生き物と自分との区別がつかないような錯覚を覚える瞬間があった。 ロバが悲壮な顔をしていると、こっちまで悲壮になってしまうのであった。 「ぼくらはみんな生きている♪ みんなみんな生きているんだ、友達なんだ♪」 ・・・この歌は本当に真実なのかもしれない。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 さて、アフガニスタンを迂回して西へ行くことにしたものの、もうひとつの気がかりがあった。 「イランに入国できるか?」ということだ。 日本とイランは相互にビザを免除することになっていて、日本人がイランに入るのにビザは不要ということになっているが、 この時期、テヘランにあるアメリカ大使館をイランが占拠していた、いわゆる「アメリカ大使館人質事件」の真っ最中だった。 革命以前のイランはパーレビ国王を元首とする親米政権だったが、1979年2月、イラン革命が勃発してホメイニ師を最高指導者とするイスラム教色濃厚な政権が誕生。 アメリカとイランとの関係が悪化していたところに、1979年11月、あのアメリカ大使館人質事件が発生し、関係は最悪となっていた。 そのため旅行者の間では、アメリカ人はもちろんのこと、アメリカと同盟国とみなされる国の人はイランに入国できなくなっている・・・との噂があった。 私がラホール滞在中には、イギリス人、フランス人がイランに入れなくなった・ ・・・という噂を聞いた。 じゃあ日本人はどうなんだ? 日本はアメリカの同盟国だぞ。 ラホールでは確かなことは分からなかった。 調べるのも面倒くさかった。 行ってみて入国できなかったら引き返せばいいさ・・そんな考えだった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 イランに近いクエッタまで来たんだから何か分かるかも・・・ そう思い、街のInformationセンターに行き、係官に聞いてみた。 「現在、日本人はイランに入国できますか? ビザなしで。」 「明日はメーデー、あさっては金曜(イスラムの休日)でイラン国境は閉まっています。 日本人がノービザで入れるかどうかはわからないが、多分必要でしょう。」 ビザが必要だって! 本当かよ。 ついでにアフガニスタンのことも聞いてみるか・・・ 「ここからアフガニスタンへは入国できますか?」 「アフガニスタンのカンダハルまではそぐそこです。国境も開いています。 しかしアフガニスタンは現在戦争中です。もしあなたがアフガニスタンに入国しても、生きて出てこられる確率は50パーセントです。」 やっぱり・・・ なんで50パーセントなんていう数字がでてくるかは分からないけど、やっ ぱり相当危なそうだ。やめとこう。 この時代、まだ「タリバン」というものはなかったと思うが、カンダハルはあの「タリバン」の本拠地があったところだ。 クエッタはアフガニスタンのカンダハルから100kmも離れていない。まさに目と鼻の先。そういう位置にあった。 イランのビザが必要だとなれば、イラン領事館へ行くしかないか・・・ でもイラン領事館は閉まっていた。 ここも例によって「明日はメーデー、あさっては金曜(イスラムの休日)でお休み」デス!! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 この街にしばらく滞在しなけりゃならないみたいだ。 せっかく沙漠の真ん中のオアシスの街にいるんだ。街はずれまで行って沙漠をゆっくりと見物してやるか・・・ 翌日、南側の街はずれまで埃っぽい道をトボトボと歩いていく。 街はずれのオアシスの畑で野良仕事をしている数人の男たちに呼び止められた。 「何処から来た?」 「日本」 「ジャパン、ナイスカントリー。これから昼飯だ。一緒に食べていけ。」 やった、ラッキー。 彼らの昼食というのは、ケロシンランプの上に鉄板を置いて肉を炒めて食べる「焼肉」だった。 肉ばかりで野菜が見当たらない。肉だけ食べるのなら胸焼けしそうだな・・ と思ったら、彼らは周りに生えている牧草のような雑草をむしって、そのまま鉄板に放り込むのだった。 「あんたはチンキス・ハーンを知っているか?」 彼らの一人が話した。 「ああ、知っている。彼はとても有名だ。」 「チンギス・ハーンは偉大な人物だ。俺たちは偉大なチンギス・ハーンの子孫なのだよ。」 「でもチンギス・ハーンは、すごくたくさんの人を殺したじゃないか。」 彼らは笑っていた。 「たくさんの人を殺した? それがどうしたというんだ・・・」という顔をしている。 考えてみればアレキサンダーだって、カエサルだって、関羽や曹操、義経や信長だってたくさんたくさん殺している。 昔の「英雄」は人殺しだ。「英雄」って何だろう? 畑の向こうは広大な沙漠地帯だ。 ところどころわずかに生えている草を追って、遊牧民が山羊を放牧しているのが見える。 羊がはぐれそうになると、牧童は大きな石を拾って羊の方に投げつけるのだった。 ドスッと石が落ちる音がして羊は戻ってくる。 イメージしていたより荒っぽいやり方だ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 この街の旧市街は、太いターバンを巻いたアフガンスタイルの人たちで賑わっていた。 あちこちの家の前に数人ずつたむろして雑談していることが多い。 私が通り過ぎると例外なく皆の視線が集まる。 若い女の子はほとんど見かけないが、たまに見かけるとすごく可愛い(^o^) もちろん女性の写真を撮ることはできない。 おばさんたちの方は、皆宇宙人のように白いチャドルを頭からすっぽりかぶり、行き会うとたいていバクシーシ(施し)をねだる。 イスラム教では富める者が貧しい者に施しを与えるのは当たり前であり義務だから、普通の人が外国人を見かけたら施しを求めるのは、至極当然のことなのかもしれない。 街の様子を写真を撮りたかったが、モスリムの年配者は一般的に写真に撮られることを嫌うし、なんとなく怖くてカメラを向けられない雰囲気があった。 街の感じといい、人々のスタイルといい、聞こえてくるざわめき、音など、アラビアンナイトなどのお話の世界に迷い込んだような、すごくエキゾチックな独特の雰囲気。 日本や欧米先進国とは明らかに違う世界・・・ 当時、日本では久保田早紀の「異邦人」という歌がヒットしていたそうだが、あの歌から連想される異国の街のイメージは、まさにここパキスタンの沙漠の街、クエッタそのものではないか。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 私が泊まっていたホテルの横は小さなモスクになっていて、下の道端にはいつもおっさんたちがたむろしていた。暇な人たちだ(^^ゞ 彼らに手招きされていって見ると、またひと通りのことを聞かれ、お茶やタバコをご馳走になる。 彼らはほとんど英語を話せないので、少々のことを伝えるのに随分時間がかかるが、それが終わると話すことがなくなる・・というよりできなくなる。 それでも彼らは、私がタバコを吸ったり何か話すのを楽しみな様子でずっと見ているのだった。 本当に・・・暇な人たちだ(^^ゞ 夜、このモスクは月夜の下に白く浮き出て、道を走るロバ車のカタカタという音に混じって、モスクの中からコーランの説教が聞こえてくる。 私は今、中世のペルシャにいるのでは・・・ そういう錯覚を起こさせる街だった。 (続く) |